「戦慄とオーガズム」 | ステートメント


コンピューターではエラーが起きると、処理できずに動作が止まってしまい、次のステップ へ進むことができない。しかし人間生活においては、取り巻く環境や状況にエラーが起きた としても、動作が止まることはない。むしろ、止まるわけにはいかないのだ。なぜなら人は 「明日を信じて生き続けなければならない」という同調圧力に支配されているからだ。また、エラーに似たバグは、エラーではないため動作が止まることはない、だが不正な処理ルー ティンを繰り返すという。

有史以来ずっと、世界各国で山積した“解決できない問題”は、未だ解決へと向かってはいない。まさに今、世界はバグの状態である。

僕は大学卒業後会社に勤め約 7 年間社会の同調圧力を経験した。そこには常態化したサービ ス残業と、見たことのない覚醒ドリンクを飲みながら、徹夜作業で邁進する従業員の姿があ った。地方出身者が大半を占める従業員たちは、会社の為という建前に飼い慣らされながらも、自身の生活と将来の夢のためにという大義名分の元 「働かざるをえない」いわば洗脳状態であった。そんな大義名分に飼い慣らさたくない僕は今、違う大義名分の元、介護施設のアルバイトをしている。そこでは家庭で手に負えない痴呆老人や、体が不自由になって歩く こともままならない老人たちが狭い部屋の中で共同生活をしながら暮らしている。彼らは毎 日、自覚のないまま経口摂食と排泄を繰り返し、自分ではどうすることもできない状態のまま“生きている”。

これまで、過去にネットやメディアで取り上げられた事件や事象の起きた場所をめぐり制作 を続けてきた。そこはジャーナリズム精神に則って邪険に記事として取り上げられたまま放置され、既に世間から忘れ去られた場所、つまり「傷ついた場所」と言ってもいい場所の置 き去りにされた記憶、傷ついた記憶を再調査することで、新しく見えてきた真実や、新たな 打開策を提案し、それらの場所や事象に変化を試みてきた。

誰しもが生活に追われる日常の中では、問題と思える問題を問題として取り上げなくなり、 見過ごし、見落としてしまう。もはや風景と化した問題とバカ真面目に向き合い、問題をす り替えることで違った角度から捉えなおしたいと思っている。それは拮抗した社会の歯車を 回した先に見られるはずの現実を、この目で見たいという欲求からである。

これらの作品は、一つ間違えれば“現実にありえたかもしれない僕自身の「ポートレート」であり、忘れ去られた問題の渦中にいる人々と向き合い、作品を嘲笑う。僕にとっても鑑賞者 にとってもその行為はいわば予防接種。もしこの先、大災害が起きて、自分が被害者、当事 者となった時に客観的で冷静な視点を保てるか。「逃れられない現実を受け止める精神力」 と「悲しみを笑いに変えられる強い心」を作る準備作業になればいいと思う。 だから僕の作 品を見て大いに笑ってほしいし、大いに悲しんでほしいし、大いに僕を嫌ってもらえたらいい。