2023 アクリル、塩化ビニール、照明器具、H61xW61xD10cm, H42xW42xD11cm、他
2021年、久しぶりに帰省すると光があった。あの震災以来閉じたままの雨戸は開き、それまで蛍光灯のみだった居間には太陽の光が差し込んでいた。
この10年はとても長く、短い10年だった。
2020年夏、初めて帰還困難区域に入域した。復興に向けて居住の制限された区域の解除も進み、元の住処に戻ることが現実的になってきたのだ。しかしそこに昔馴染みの家があるとは限らない。多くは除染のために解体し、一帯が更地となった所も多い。同時に、帰還困難区域はまだ広範囲に広がり、帰還が叶わない人々もたくさんいる。
この12年、私は福島で様々な経験と思いをもつ方々に話を伺った。しかしそれは全体のほんの一部に過ぎない。立場や住んでいた場所、年齢などによっても考えや思いは異なる。復興への喜びと未来への希望を抱く者がいる一方で、未だ続く被害と進まない復興に絶望と苦しみ、悲しみと怒りを抱く者もいる。
光が強くなることで、影も強くなる。
復興はまだ始まったばかりだ。いや、始まったと言えるだろうか。
2022 ムービーデータ 10分55秒
2020年から世界中でStay Homeを強いられ、国や都市を越える移動と、対面で他者と会うことが難しくなった。
愛する人との別れ。
分断はいつだって唐突だ。
それは時に、他者や土地との関係をより強く意識させると同時に、これまでの生き方、人との関わり方、故郷とのつながりを見つめ、新たな未来を築くきっかけになるだろう。
2022 ムービーデータ 16分03秒
人生二度目の広島平和記念資料館。
前回訪れたのは2017年だっただろうか。一人で解説を読みながら観て回った記憶がある。 今回はせっかくなので、資料館周辺を案内してくれるボランティアのガイドをお願いすることにした。
案内が終わり、被爆二世だというガイドの方から「今日はどちらからお越しですか?」と尋ねられ、 とっさに「福島からです」と答えると、「あー、福島は毎日がハチロクですものね」と言われた。
私は福島の災害と復興の現状をもっと多くの人々に伝えたいと思った。
※原爆が投下された1945年8月6日を、広島では「ハチロク」と言うそうだ。
2022 ムービーデータ 13分14秒
2021年夏、祖母がこの世を去った。 お葬式の朝、彼女がいつも使っていた先の折れた使い古しの箸と茶碗、靴と服を一着、それから短い手紙、紙に印刷された六文銭、たくさんのお花を棺に入った小さな遺体に添えた。
自分は何を持って逝きたいだろう。
これから長い旅が始まる。
制作協力|新宿デイサービスとトー横キッズの皆さん
2022 ムービーデータ 11分22秒
約90 年前、ロシア極東のサハリン・ユジノサハリンスクがまだ日本の樺太・豊原と呼ばれていた時代。当時、朝鮮や樺太へ進出していた王子製紙株式会社の貯水池として王子ヶ池は豊原公園に作られた。これはその時*1建立された石碑である。
*2 第二次世界大戦後に日本が樺太の権利を放棄してからは、豊原公園はガガーリン(記念文化)公園と改名され、近くにあった樺太神社も鳥居と本殿が解体され、戦勝記念の記念碑や軍服姿の胸像、赤い旗や旧ソ連時代の戦車が立ち並ぶ栄光広場と改名された。この石碑も数年前まで真っ二つに割れた状態で横倒しになり放置されていたが、地元の有志が修復し再建したという。
2022 年夏に戦後77 年が経過する。王子ヶ池のこの石碑は今後もサハリンで立ち続けられるだろうか。
– 出典:https://www.teikokushoin.co.jp/high/faq/detail/108/
2022 ムービーデータ 12分49秒
約90 年前、朝鮮から樺太へ渡った朝鮮人の両親の元に生まれた彼は、戦前戦中は日本人として日本の教育を受けた。しかし、戦後は「あなたは日本人ではない」と言われて引き揚げ船に乗れず、そのままサハリン(樺太)に置き去りにされたという。
これは、異国の地ではじまった戦争の先に訪れるかもしれない未来への予感と、 遠い昔に国家間の抗争に翻弄された、ある青年の物語だ。
2022 写真 H172xW305mm
2022年3月11日現在、この写真に写っている場所はウクライナの首都キエフです。
古い付箋は必ず写真から剥がして下さい。
2021 ムービーデータ 10分53秒
秋になり、私は悩んだ挙句、新型コロナワクチンを二度接種した。
高村光太郎 「智恵子抄/レモン哀歌」より
2021 木、水性塗料、照明器具、H30.5xW30.5xD1.5cm
戦前、最愛の妻・高村智恵子への愛を綴った詩集「智恵子抄」を編んだ、彫刻家で詩人の高村光太郎。戦中に彼は、大政翼賛会の委員として日本国民の戦意高揚のため多くの戦争賛美と協力の詩を書いた。
当時、軍国主義を掲げ東西南北各地で戦争を繰り広げた日本も、戦後は民主主義へと社会の風潮は大きく反転したという。
戦後に戦犯として戦争責任を追及されることはなかった高村光太郎。だが、戦争加担への反省から戦後約7年間、岩手県・花巻郊外に建てた粗末な小屋で自給自足の生活を送った。
この反転した「光」は、彼が戦後に花巻郊外に建てた粗末な自宅のトイレ(厠)の壁に彫った「光」の文字である。トイレの外から見ると「光」、トイレの中には「反転した光」から光が差し込む。
人里離れた山奥の薄暗いトイレの中から、「反転した光」の先に映る「反転した社会」を、当時彼はどのような思いで眺めていたのだろうか。
2021 キャンバス、インク、照明器具、H72.8×W60.5×D3cm
撮影地|福島県富岡町夜の森(さくら通り)
2020 木製パネルに和紙、墨、顔料、膠、金、H151 × W208cm
第二次世界大戦中、日本陸軍の命によって描かれた戦争画の一つに、軍に受け取りを拒否され、その後作家によって秘匿された作品がある。その作品は、戦争画を記録したカタログに収録されることで、戦後にようやく公開されたが、作家は戦前と戦後の価値観の転換を意識して、戦中の「尽忠報国」を表した「桜の花びら」を抹消(黒く塗り潰し)し「追悼哀惜」の作品に置き換えたという。
この作品は、公開された人体の部分を黒塗りし、抹消され今は見ることのできない「桜の花びら」を描いた。戦後75 年が過ぎ、日本のナショナリズム形成に桜が用いられた記憶を忘れ、ただただ鑑賞される桜が咲き誇る「桜花爛漫」と、再び「尽忠報国」が蘇る気配のする現代の「世相」を描いた。
表現の自由が謳われる昨今、この国に「表現の自由」は本当に存在し得るのだろうか。
【参考文献】 日南町美術館(2013)「日本画家 小早川秋聲 戦争の記憶」
2019 ういろう、ゆびえのぐ、食紅、布、ワイヤー、土、ソメイヨシノ 350 × 625 × 420cm
遡ること55年。1964年の東京オリンピックに合わせて開通した、世界初の高速鉄道「新幹線」という夢のインフラは、人々の生活と文化に大きな影響を与えた。今では誰しもが知る名古屋の名物ういろうもまた、新幹線の車内販売に採用されたことをきっかけに「名古屋名物 ういろう」として全国的に広まったのだ。
今から8年後。2027年、ここ名古屋にも東京・大阪間を約1時間で結ぶ「リニア中央新幹線」が開通する。同時に進められている大規模な都市開発は再び都市の風景を変え、人の流れを変えるだろう。その影響によって「名古屋名物」もまた、その姿形を変えるかもしれない。
そこで今回私は、昭和に誕生した愛知・名古屋名物「ういろう」を、食べるものから鑑賞するものへと変化を試みた。それは新しいインフラによって「名古屋の名物」が他の何かに取って代わるかもしれないという危機感から「名古屋名物 ういろう」という事実を保存・記録することが目的である。そして大好きな「ういろう」を一生食べ続けたいという切なる想いを込めた。
2019 ムービーデータ 03分03秒
智恵子亡きあとも彼女を思い続けた夫・高村光太郎を役者に憑依させ、東京五輪に向けて建設ラッシュに沸く偽物の東京の空を、建物で見えなくなるよう懇願する。
高村光太郎 「智恵子抄/あどけない話」より
2019 写真、顔料、雨、キャンバス、キャンバスボード/ H31.8×W41.0、H45.5×W53.0、H50.0×W60.6 cm
2020年東京五輪と2027年東京ー大阪間のリニア開通に向けて、2000年代初頭から始まった都市再開発のすすむ東京23区内の地名。顔料をのせたキャンバスを屋外にしばらく放置し、顔料を降雨で溶かすことで、再度訪れた時には変わってしまっている東京各地の風景を描いた。顔料には五輪マークに用いられている(青・黄・黒・緑・赤)を採用した。
空白のパネル: 皇居
2019 ムービーデータ 17分46秒
我々の身に何が起きようと 未来は暴力的にやってくる。
1945 年8 月15 日 正午、台湾。生まれ育った風景が一変する事を誰が予想しただろうか。
日本の統治は1895 年から50 年間に及びそこで生まれ育った子供達は日本人と同じように育てられていた。しかし、1945 年8 月15 日 正午玉音放送とともに台湾は、中華民国へ接収された。( 正確には1945 年10 月25 日)
私は今回、日本統治時代の台湾を知る80 歳以上の高齢者を訪ね、日本が彼らに何を残し、何を奪ったのかを伺うとともに、彼らの「あったかもしれない過去の未来」を仮想する事にした。
2018 ムービーデータ 3分22秒
韓国ソウル市鍾路区の公共造形物第1号となった「平和の少女像」(通称:慰安婦像)を3Dスキャンし、そのデータを無料配布する「パブリック・アーカイブ」プロジェクト。
韓国や日本、諸外国においても政権が変わると国の方針は変わり、それまでの事実は誰かの都合よく隠蔽・改竄・修正されてきた。そこで今回は、この公共造形物とその設置された歴史的事実をネット上にオープンソース化し、半永久的に「記録する」試みである。
撮影地|韓国(ソウル)
2017 ムービーデータ 24分58秒
50年間の日本統治を経て、現在は中華民国の統治下にある台湾。
日本統治下で教育を受けた世代と、戦後の中華民国統治下で教育を受けた世代とでは扱う言語が異なる。その為、双方のコミュニケーションは乏しく世代間の文化・風俗の断絶があるという。また、高齢者は認知症や身体的理由から外出が困難な為、その傾向はますます加速していると言われている。
そこで私は、日本語を話す世代の方々を訪ね、彼らが幼少期に習った日本の文化や風俗を、日本語で語る映像を記録することが性急と考えた。それは彼らを通して垣間見える当時の台湾を知ることで、昔の日本が何を残し奪ったのか、これからを生きる人々と今は亡き昔の台湾を共有し、未来を考えるきっかけになればと考えた。
撮影地|台湾(台北・台南)
2017 ムービーデータ 05分13秒
半径20km 警戒区域
半径30km 緊急時避難準備区域
半径50km 計画的避難区域
半径200km 日本の首都 東京
半径1800km 日本で唯一の地上戦の舞台 沖縄
オリンピックやリニアモーターカーで この国はひとつになれるのだろうか
撮影地|沖縄(地図)
2017 ムービーデー サイズ可変 /インスタレーション
2011 年 3 月 11 日以降、勃興した反原発運動の参加者は 20 万人にまで膨れ上がった。だが、メディアの関心や運動の参加者が少なくなった今でも、脱原発テントで活動する彼らは「ひろば」占拠の正当性と強い反原発の想いを持って国と電力会社と闘っている。 それはテント建設から 5 年が過ぎた今でも、彼らの「理想」が果たされてはいないからだ。
2016年8月。約5年に及ぶ活動家らの国有地(通称 ポケットパーク)不法占拠による脱原発活動は、最高裁判所の強制撤去という形で、その歴史に幕を閉じた。
あれからX年。
夢をあきらめなかった老人たちは、経済産業省の目指す宇宙開発事業による経済促進と、シルバー人材雇用拡大に一役買い、経済産業省第四分館による「脱原発」は「脱地球」という形で実現されたのだった。
2016 ムービーデータ 18分37秒/インスタレーション
撮影地(地図)
2016 ムービーデータ 05分40秒/シルクスクリーン
毎週金曜日の終電間近。クタクタになったスーツが街中に転がっている。
全く機能しない労働法のもと、低賃金の高ノルマ、休日返上の長時間労働。不眠不休を強いられ、彼等はひたすらに消耗されてゆく。家族のため、会社のため、お国のため…..様々な重圧を一身に背負い、死ぬまで続く「仕事」を忘れるかのように煽る週末の酒。
勝利も解放もないまま誰からも褒められず疲れ果てた彼等にそっと布を掛けた、「お疲れ様」の一言を添えて。
英雄たちの勇姿は今も昔も変わらない。
2016 ムービーデータ 06分57秒/ 赤ちゃんの足
震災後の福島に生まれた赤ちゃんにも、認知症で要介護の老人にも、僕にできる事といえば「さぁ立って 前に進もう」と言ってあげる事くらい。
2015 ムービーデータ サイズ可変/インスタレーション/写真/面/2011年3月11日以降4年間分の地元新聞紙
2015 ムービーデータ 2分32秒/インスタレーション
昔々、キチガイと呼ばれた女がこの上の空を「ほんとの空」と言った。
「はっ?うっせーし!何があろうとこの上がほんとの空!」
毒山凡太朗によるあらゆるほんとの空入門
高村光太郎 著「智恵子抄・あどけない話」より
2015 写真/ムービーデータ 02分24秒/イルカの骨肉
2015 年04 月10 日、茨城県鉾田市の海岸に大量のイルカが打ち上げられた。翌日、様々な憶測が日本中を飛び交った。その死体は、この先起きうるあらゆる事態を想起させるコマンドとして働いた。
映像撮影日は2015 年04 月11 日。約150 頭打ち上げられたイルカのうち、最後の1頭。
2014 ムービーデータ 07分11秒
「風俗童貞なの?子供だね」そう言われて向かった先は、震災後の風俗バブルに沸くいわき市の風俗街。この地で休む事なく癒しを提供する彼女の名は「リカ」。しかし僕は彼女を” 買う”ことはできなかった。
翌日、癒しを求めて隣町の「リカちゃんキャッスル」を訪れた。ここでは毎日ソフトビニール製の「リカ」が大量生産され販売されている。
大人の階段を登る為の風俗と、情操教育の基本とも言える人形遊び、大人と子供の中間地点に立つ二人の「リカ」を巡る二部映像。